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まちと住まいの空間11回【三陸のまちと住まい編2】

阿部源左衛門家系列の建築に見る大須浜の住まい方

岡本哲志岡本哲志

2019/05/14

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回船問屋で地位を築いた4代目阿部源左衛門は、慶応3(1867)年に57歳で死去する。その後、5代目の阿部源左衛門(1842年生まれ)が44歳、6代目の阿部源之助(1866年生まれ)が36歳と、廻船の商いを熟達する前にこの世を去る。そのために、7代目は4代目の四男である阿部安蔵(1849年生まれ/66歳没)がピンチヒッターとして宗家の阿部源左衛門家(I系列)を継ぐ。6代目の嫡男がまだ成人していない状況だったと推察される。阿部源左衛門家は、一族全体で宗家をサポートする、共同体の仕組みがあった。

言い伝えによると、源頼朝によって奥州藤原氏が滅亡する文治5(1189)年、落ち武者として大須浜に辿り着き、その時に大須浜を切り開いた五軒の家が定住してから集落の歴史がはじまるとされる(図1)。これら五軒のうち、宮守である佐藤家宗家の墓石には、14世紀はじめころまで遡れる没年が刻まれている。切り開き五軒は、北から南に下る斜面地に並ぶように谷筋の沢に面して配された。このうち、2軒の切り開きは敷地を移動させるが、他は現在もほぼ当初からの屋敷地の場所を維持する。

 

阿部源左衛門家は、江戸中期に切り開き五軒の一つ、阿部家宗家(C系列)の第一別家として独立する。敷地は宗家の東側を分け与えられた。その後、阿部源左衛門家が大須浜において確固たる地位を得る時代は、4代目阿部源左衛門が当主のころである。多くの別家を出す(図2)。別家は、主に阿部源左衛門家東側の敷地が分割して与えられたが、四男の阿部安蔵は西側の離れた土地だった。

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広間型三間間取りの建築

現在、大須浜には江戸時代後期から明治前期くらいまでに建てられた建築が十棟近く残る。そのなかで、2つの建物が阿部源左衛門家からの別家である。一つは宗家と隣接した東側の敷地に建つ建物(AR邸)で、敷地内の路地で宗家と結ばれている(図3)。いま一つは四男の阿部安蔵が初代となる建物(AT邸)である。これらの2家に加え、前回確認した阿部源左衛門家宗家の江戸時代後期に建てられた平面図を比較しながら、大須浜における居住空間の特徴を見ることにしよう。

建物の間取りは、いずれも「ドマ(土間)」(現在は茶の間)、「オカミ」、「ザシキ」からなる「広間型三間間取り」で構成される。大須浜の家はほぼこの間取りで建てられてきた。1970年代以降に新築した家も、玄関から裏の台所に通された廊下が加わるだけで、基本は「広間型三間間取り」を踏襲する。

大須浜は、2011年に起きた3.11の地震津波による建物被害も少なく、過去に発生したチリ沖地震津津波、1933年の三陸地震津波、1896年の三陸地震津波においてもほとんど被害を受けてこなかった。ただ、高度成長期以降は建て替えが少なからずあり、新しい建物が目立つ。3.11以降になると、空家だった古民家が取り壊された現場も目にした。人が住む場であり続ければ、壊されることもなかったはずの建物である。江戸時代後期から明治前期までの百年をゆうに越える建築が浜から消えていく現実が大須浜にある。

阿部原左衛門家7代目の阿部安蔵を祖とするAR邸


AR邸の外観(奥は阿部源左衛門家)

一つ目のAR邸は、別家した当初に建てられた建物と伝えられてきた。この辺りは宗家や古い別家が寄り集まるエリアであり、広い敷地を得ることができない。そのためか、敷地配置は母屋と納屋の間のスペースが庭というより、通路程度の広さにとどまる。旧家が集まる集落の中心部に見られる「並列型」の屋敷配置である(写真1)。


AR邸の間取りを見ると、オカミが15畳である(図4)。大須浜に残る江戸時代後期から明治初期以前に建てられた建物の多くが15畳のオカミであり、基本的な広さといえる。西隣の宗家が24畳のオカミであるのに比べ小規模なことから、祭などのハレとケの場で浜内外の多くの人たちを招くことはなかった。オカミが狭い分、オカミの後ろにはナンドを設けられた。このナンドはかつて味噌蔵として使われていたという。オカミの西隣はオモテザシキ(8畳)、ウラザシキ(6畳)が並ぶ。オモテザシキの方が2畳分広く、大須浜に建てられた江戸後期の建物の一般的なザシキ規模の配分である。

オカミの南側やザシキの西側には縁側が設けてある。たっぷりと日差しが入る南側は開放的だが、ザシキのある西側は全て壁である。夏場の南からの風が抜けず、風通しが悪い。ただ、もとは西側も壁でなく、戸か窓が設けられていたと考えられる。定かではないが、養蚕のために屋根を上げた際、西側に縁側を新たに設けた可能性が高い。改築された建物は、屋根裏を上げて天井を高くするとともに、周りの中二階部分に回り廊下を新たに設けた。その時に、西側の縁側も同時に増設したと考えられる。

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阿部源左衛門家の別家のAT邸

いま一つの建物AT邸も、大須浜の廻船問屋で財をなした阿部源左衛門家から出た別家である。江戸後期ころに別家しており、大須浜の旧家五十五軒に数えられた。この家からもさらに別家が出された。現存する建物は別家した時に建ったものとされ、少なく見積もっても150年以上が経過していると推察される。

AT邸には南北に延びる道の東側から敷地に入り、右側に母屋がある。入口の左側には納屋が建てられており、便所や作業場となっていた。納屋の建物自体は新しいが、以前も同様の場所に納屋があったとされる。建物の前面に庭が取られ、井戸は母屋の裏にある。母屋は、南南西に向いて建てられ、玄関はそちらから入る。玄関を入ると、すぐドマとなる。その一部分は板敷きで、イロリが切られた。イロリはオカミにも切られており全部で2つイロリある。

内部空間の構成をもう少し詳しく見ると、オカミの広さが21畳(図5)。一般的なAR邸の15畳のオカミと比べ6畳分広く、江戸後期の標準的なオカミの規模ではない。AT邸の本家筋にあたる阿部源左衛門家宗家の屋敷が建て替えられる前に24畳あったオカミと比べ3畳分狭いだけである。オカミは冠婚葬祭の時に浜の人たちを招き入れる公的な空間である。浜の有力者であればあるほど、オカミは広くなる。多くの人を呼ばなくてはならない実用性に加え、オカミの広さにある種のステータスがあり、ピンチヒッターとは言え7代目を継いだ家に相応しい建物となったと思われる。ナンドは存在しない。後にこれを潰してオカミを広くしたのかもしれない。ちなみに、阿部源左衛門家宗家の味噌蔵は、24畳もあるオカミの裏ではなく、茶の間の裏にあった。オカミの広さによって、ザシキの規模や納戸の配置に多少の変化があったようだ。

オカミの左隣はオモテザシキ(8畳)とウラザシキ(6畳)となる。オカミほど、ザシキは家による規模の違いを見せない。AT邸も、オモテザシキの方がウラザシキよりも2畳分広く、大須浜で一般的に見られる表と裏のザシキ規模の関係である。


AT邸の内部空間(オカミ)

AT邸の建物は幸いにほとんど増築がされていない。新たに加えられた部分は、台所などごく限られた増築にとどまっており、昔の姿をそのまま残し続ける。実測調査に入ったはじめのころは、梁の太さにまず驚かされた(写真2)。太い梁と柱で組み上げられた高い天井を見上げながら実測調査していると、建物が特殊な構造であることに気づく。まるで船底をひっくり返して屋根にしたような構造である。ただ柱に関しては様子が少し変わる。大黒柱など主な構造材として使われる柱はもちろん太い材がそのまま使われた。だが、構造上あまり問題のない場所に使う材は厚手の板を四方に張り付けることで細い柱を太く見せかけている。

明治に入ると、大須浜でも養蚕が行われるようになり、江戸後期の建物を改築するケースが見られる。AT邸も同様で、屋根を上げ、養蚕の作業ができるように、天井を高く持ち上げる改修工事が行われた。変化は断面から見た時の高さだけで、その他に間取りは変えていない。オカミの周辺にはかがみながらでないと通れない回廊が一階の廊下の上に廻された。養蚕の作業用に、屋根を上げた時同時につくられたものと考えられる。茶の間の天井には床を張り、養蚕に使う道具が中二階部分に収納された。調査でのぞくと、養蚕の道具の一部がまだ残されており、養蚕の時代の空気が嗅ぎ取れたような気がした。

 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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